夏のおわりに

2004.9.6

 トロトロとまどろむような眠りから覚めると夫の顔があった。「気分はどう?」続いて、母と夫の両親がかわるがわるベットの脇にやってきて、心配そうな顔でのぞきこむ。気分は悪くなかった。静脈麻酔の効き目の切れ際の宙に浮かぶような感じが気持ち良かった。家族のひとりひとりと話をしながら、「終わったんだな」という実感が強くなっていった。

 前日の夜中、救急治療の診察室で、「赤ちゃんの心音が見えない」と当直の医師が遠慮がちに言ったのだった。翌日、もう一度主治医に診察してもらうことをすすめられ、改めて訪れたものの、診断はやはり同じだった。
 私の場合は「稽留流産」といい、亡くなった赤ちゃんがまだ子宮の中で留まっている状態だった。主治医の話では、3ヶ月までの流産は妊婦の10人に1人は起こるという。
 「染色体の異常や、卵子の状態が悪いなど、育つことのできない赤ちゃんの自然淘汰として起こるものなんです。母体側の問題ではないから、仕方がないことなんですよ。」私の気持ちの負担を減らすように、主治医は、淡々と話す。11週目だった。
 よくあることだとわかっていても、本人は、そのときはそうは思えない。夫も私もその夜はさすがに眠れなかった。
 「先週、駒場公園を2時間ぐらい歩いた。あれが悪かったんじゃないか?」 「つわりのとき、やきそばと寿司ばっかり食べてたからなぁ。栄養失調になったのかも・・・?」滑稽なほど、細かいことにこだわって、自分を責める気持ちが止まらない。
 
 電話の受信音が鳴り、ファックスが届いた。祖父からだった。
「今、お母さんから報せを聞きました。残念でしたね。折角大事に大事にして来たのに。死生は人間のはからいの外。神のはからい。体を大事にしてください。またその中授かる。授けてくださる。悲しみをこらえてひたすら大事に、それのみ祈ります。 祖父」
 私の祖父は89歳。長寿をうらやましがられるけれど、永く生きるのはしんどいことも多い。2人の息子、1人の娘。長男は20年前にガンで他界していた。次男である私の父は祖父の跡を取って家業を継いでいたが、9年前に亡くなった。
 祖父がこの20年をどんな風に過ごしたか、短い文章の中に見えた気がした。「諦める」しかないんだ。自分を責めたら赤ちゃんがかわいそうだ。すこしづつ気持ちが凪いでいく。
 
入院してからの1週間、関西から駆けつけてくれた、両方の父母のおかげで、憂いなく眠るように過ごした。
 3人が帰って、私と夫は2人に戻った。3ヶ月前も2人の生活だった。何も変わらない。ベッドの上に寝転んで、マンションの庭に立つ大きな木が揺れるのを眺める。何も変わらないはずなのに、何か違っていた。
 命を続けていくこと。「生きている」状態はあたりまえではないんだ。赤ちゃんにとっても、私にとっても・・・・。こんな形で、わかりたくなかったのになぁ・・・でも、赤ちゃんが教えてくれたのか・・・。
 木の葉が少し早い秋の風に揺れている。
 夫が横で、「もう、無邪気な去年の夏には戻れないね」と言って笑った。
 短い今年の夏が終わった。