誇り高き豚丼

2004.10.2

 新宿3丁目の寄席「末広亭」のすぐ近くに豚丼の専門店がある。店の名前と“豚丼”とだけ書かれた看板の周りには白熱灯が点滅している。それだけが目印の地下の店。1年ほど前、深夜にご飯に食べはぐれ、うろうろ歩きまわって偶然見つけ、以来、月に1回ほど通うようになった。
 北海道出身の店主が作る豚丼は不思議な味。豚の脂の濃厚なとろみとコブの効いた独特のタレが口の中で混ざって厚みのある風味を作るのに、飲み込むと何ごともなかったような爽快感がある。
 何日か前、新宿駒劇場近くのライブハウスの帰り、むしょうに豚丼が食べたくなった。20分以上歩いて、店に着いたのは11時半。他にお客はいないようだ。
 「あ。いらっしゃいませ」主人は注文を聞くと、1冊のA4サイズの本を持ってきた。“豚のすべてが分かる本”パラパラとめくると、豚肉の健康効果や美味しそうなレシピがいっぱいだ。その中にただ1件、豚丼の専門店として掲載されたという。主人が指差したページには“豚丼”と書かれた例の看板の写真だけが控えめに写っている。
 「なんで~?顔を載せてもらって住所も入れてもらえばいいのに!!」
カウンターしかない店のスツールの上で私が抗議すると彼は言う。
「この店は地下ですし、合い向かいの店との間口が1.5メートルしかないんです。ここでウェイティングされるとお向かいに迷惑かかりますしね。」
タダで宣伝してもらえるんだからいいじゃない!?・・・そう思いながらいつものように豚丼を口に運んだ。いつものように不思議な味だ。
タレをどうやって作っているのだろう。
「タレは数日がかりで煮るんで、お客さんが多いと足りなくなっちゃうときがあるんです。タレは絶対薄めるわけにいかないから、そんな時は店を閉めます。」
 私はちょっとショックをうけた。倉庫用に作られ、ドア1枚で汚水タンクに隔てられた地下の6畳の店で、羅臼昆布と醤油を独りで何日も煮詰め続ける姿を想像した。
“おてんとさまが見ている”ていう言葉を思い出した。小さい頃、私の役目だった階段と廊下の拭き掃除をごまかすと、言われた言葉。
 この店が、私をこんなに惹きつけるワケ。「正直者が損をする」「言ったもんがち」な世の中で彼の豚丼のタレは誇り高い味がするのだ。1階の客の入りのいい1階のコギレイな場所に出店したいとも思っていない。
 なんといっても彼は、「おてんとうさんに」向かって仕事しているのだから。
彼の豚丼を食べたいと思われた方。末広亭の廻りを注意深く歩いてみてくださいね。きっと見つかるから。でも、イスが古ぼけてるとか、冷房の効きが悪いとか、甘っタレ(?)たことはいわないように!