阪口珠未(さかぐち・すみ)

漢方キッチン代表・薬膳セラピスト資格創始者
株式会社漢方キッチン代表
国立北京中医薬大学日本校講師

文科省国費留学生として、北京中医薬大学に中医学を学び、同大付属病院にて、臨床、サッポロビール合資ホテル「天橋賓館」薬膳レストラン「時珍苑」で料理を学ぶ。

帰国後、漢方薬店にて漢方カウンセリングと薬膳喫茶の経営に関わる。

「おいしく、カラダとココロをリリースする」をテーマに、1999年株式会社漢方キッチン設立。

東京恵比寿にて薬膳スクールと薬店を主宰。清代の西太后をはじめとした宮廷薬膳を研究。企業や自治体でコンサルティング実績も多い。著書に「西太后のアンチエイジングレシピ」「毎日使える薬膳&漢方の食材事典」などがある。

旅とアウトドアが趣味。

雑誌「キャンプカーマガジン」の編集者も務める。

代表者挨拶

おばあちゃんはいつも、野や畑からとれたもので体を治してくれました。

私は関西の田舎に生まれました。曽祖父母、祖父母のいる大家族で、家には畑や田がたくさんあって、家で食べる野菜や米は、ほとんど作っていました。

冷え性でお腹の弱かった幼い私に、曾祖母や祖母は、野や畑から野草や木の葉っぱを取ってきたりして、よく治してくれました。しもやけで、手が腫れあがったときは、畑に生えているダイダイ色の野草の実を摘んで、すり鉢でつぶし、手に塗ってくれました。腹痛で苦しんでいると庭の南天の葉を煎じて飲まされました。下痢には自家製の梅肉エキス。大根の絞り汁の入った鉢をもって、追い掛け回されたり。どれもこれもよく効いたのを憶えています。

一方私の母は、家で薬屋を営んでいました。体力をつけるからと、高麗人参のエキスを飲ませてくれました。冷え性の私には、効果テキメンでした。私の中での”薬”というものは、生活からかけ離れたところにあるものではなく、常に近くにあって、気軽に手にとるものでした。
なじみやすく、季節感のある美味しい食養生ってないものかしら?

大学は、文科系の学部に進み、改めて食事や薬に興味を持つようになったのは、大学4年生になってからでした。

ある日、キャンパス近くの大通りで、友人を待っていると、目の前の蕎麦屋に中年のサラリーマン風の男性が駆け込んでいきました。顔色が悪く、太ったその男性は、ものの2、3分で蕎麦を流し込むと、また急いで走り去っていきました。男性の後姿を見ながら、「なんか変だなあ」と感じました。働き盛りの人があんな食事のしかたで、体調悪そうでいいのかなぁ」と。時はバブルのはじける直前。日本経済は最強といわれ、同じ法学部の同級生は7~8つの内定をもらい、豊かといわれた時代でした。

おじさんの後姿に豊かさを感じられなかった私の興味の方向は食事へと向かっていきました。なじみやすくて、季節感があって、美味しい食養生ってないものかしら?と探して、見つけたのが薬膳でした。当時は薬膳の学校は東京にもなく、基礎から学ぶには中国に行くのが早道でした。

漢方相談と薬膳講習、二つの仕事が日本での薬膳の道を広げてくれました

4年の留学を終えて、帰国したばかりの頃は薬膳はマイナーで、ものめずらしさから興味はしめしてくれても、生活に取り入れようという人は、ごくわずか。仕事は公民館の料理講習ばかりで、日本で広げることの難しさをひしひしと感じました。

でも、実家の薬屋で漢方相談をして、お客様の体を診せていただくことと、薬膳を教える仕事という2つの現場を持ち続けたことで、「美味しく、簡単に」毎日作れて、「体や心に実際に効く」料理を提案することができるようになりました。

私が今、講座を開いてお伝えしているのは、食事をとおして、体や心を整える方法です。それは薬膳の考え方に昔の日本の食生活の知恵や現代栄養学の情報を取り入れた内容です。毎日の食事の中で、どんな食材を選ぶか、どう調理するか、調味料は何を使う、いつ食べるか。また、自分はどんなところが弱いか。いろんなことを勉強していただくことで、自分で自分のカラダや心の状態をコーディネートできるようになっていきます。もちろん、家族の食事を作るのにも活かすことができます。

私も家で、体調がすぐれない夫に料理を作ったときなど、「食べたら、体が楽になったよ。」と夫に言われると、「この仕事をしていて、良かった!」と本当に思います。美味しくて、体や心を整える食事を自分のために、家族のために、友人のために作ることができる。本当に楽しいことです。ぜひ、一緒に楽しみましょう。