映画「いのちの食べかた」

2007.12.28

ニコラウス・ゲインハルター監督の映画「いのちの食べかた」を見た。この映画は、私たちが普段食べている肉や魚、野菜果物などがどんな風に育てられ、作られているかを撮ったドキュメンタリー映画だ。
インタビューや、BGMなどはまったく無く、パプリカへの農薬散布、牛の飼育と屠殺、、豚の去勢や尻尾きり、ひよこの孵化と養鶏場の風景などが、淡々と美しい映像で綴られていく。
まるで、乗用車が工場で作られるかのように、手際よく、無駄なく、命が食べ物への作りかえられていく。
映画の中では、鶏は、テントで覆われ、照明をコントロールされた養鶏場の中で育ち、太陽を見ることも、土の中にいるミミズをつつくことも、いたずらをして犬に追い回されることもない。
牛たちは、自然な交尾ではなく、採取された元気な精子を子宮に移し、人工受精で、病気に強く、美味しい肉質の子牛を産む。屠殺されるときは、電気ショックで気絶している間に、体をさばかれて肉として処理されていく。自分が死んだことに気づかないのかもしれない。
パプリカは、土ではなく、小さな四角い箱の中で苗つけされ、育つと養分の入った液を流した材木状の物の上で生育する。収穫後、枯れたパプリカの幹は、下の四角い箱からナイフで切り落とすだけで片付けが終わる。
2時間の映画を見終えて、映画館から出てきたら、体が冷たく、硬くこわばっていた。
よく知っているけれど、なるべくなら見ないで済まそうと思っていたことを目の前に差し出されたような感じだ。
私の実家では幼い頃、鶏を飼っていた。鶏の雄はとても誇り高い。家では、野良犬などに襲われないように、夜はガラスの温室の中で眠り、朝、目覚めると、温室の中においてあるダンボールの箱の一番高いところに登って、胸をはって高らかに「コケコッコー!!」と朝を告げる。また、自分のスペースを犯されたと感じると猛然と反撃する。よく家で飼っている柴犬が攻撃されて、自分のご飯を鶏に差し出していた姿を思いだす。そんな鶏は、現代にはほとんどいないのだということを、思い知った。

現代という時代は、「いのち」が「からだ」の全部、「生命」の全部を使って生き切ることが難しいのだなあと思う。
この映画を見て、罪深いとか、私たちって他の動物のいのちに対して、傍若無人すぎるとか、残酷だとか思うだろう。動物愛護の人たちから見れば、許しがたいかもしれない。自然農法を実践している人たちは、もっと自然に育てられた野菜や果物を食べるべきだと言うだろう。
私も、映画をみながら、いろんな感情が去来した。いろんな感情が出てきて当然だ。この映画を心穏やかに見ることができる人はいないだろう。
でも、たぶんこれが現実なのだ。そしてこの現実を見て、翌日、どういう行動をとるかは人それぞれだろう。菜食主義を目指す人、もっと安全な有機農法の食材を選ぶ人、仕方が無いものとして現実を受け入れる人。きっといろいろだ。
ふと思う。これは食べ物に対してだけのことなのかしら?と。私たちが動物や植物に対してしていることは、自分たち自身に対しても同じようなことをしているのではないか?
私たちの中で、与えられた「からだ」全部を、「いのち」全部使って生き、生命の喜びを享受している人がどれくらいいるだろう。仕事で働いても、「自分自身」の一部を使うことしかできない人がほとんどではないだろうか。
それだけではなく、他の人の自由を奪い、「いのち」を踏みにじって、生きている人や組織だってある。
私たちの動植物に対しての扱いは、そのまま自分に対しての扱いなのだと思う。
私たちは、罪深い。他の命を犠牲にして生きている。それを直視する意味でも、この映画は意味があると思う。
私たちは罪深いゆえに、無力なのか?
そうではないと思う。すべては、自分自身を大事にし、愛することから始まるのではないか。まず、自分を大切に扱おう。そして、自分の家族や友人を自分を大切にするように大切にしよう。
身の回りにいる動物や植物のいのちを大切にすることも、その延長線上にあることだと思う。
他の生き物の「いのち」への深い敬いがあれば、野菜や家畜の「いのち」を育てる環境だって、現代の飼育システムとは違うものになるだろう。そして、食べるために他の命をいただくという行為も、きっと神聖なものであり得るのだと思う。
心を込めて「いただきます。」
自分も、他の命も大切にする言葉を、今日の夕食からだって始められる。