2010.10.8
この間、シッターさんのお家で、娘が鈴虫をいただいてきました。去年から卵をおいていて、今年孵化に成功したそうで、小さいペットボトルの胴に扉を切って、虫かご代わりにして、持たしてくれたのでした。
娘は、鈴虫の声を聞きながら、「どこから、声出しているのかな~。」とか「こっちがお父さんでこっちがお母さん。そして、お兄ちゃんと妹」なんて、いろいろとお話をします。
早速、虫かごを買って、玄関においておいたところ、娘が、玄関においてあるヘルメットを引きずりおろしたときに、虫かごを下に落としてしまいました。
「そんな、乱暴なことしたら鈴虫たち、死んじゃうよ。」というと、
「死んだら、また生まれ変わるから平気だよ。」と言います。
私がときどき、死んだ人や動物は、お空に帰ったら、また別のいのちになって生まれてくるんだよと言っているのを言ってるみたいです。
「でもね、生まれ変わったときには、死ぬ前のことは、みんな忘れちゃって、違う人になるんだよ。」というと、びっくりした顔をしています。
「もし、りんちゃんが死んじゃって、また生まれてきたら、もうママのところには、生まれて来れないの?」
「そうだよ。だから1回死んじゃったら、もう、そのいのちは、取り戻せないの。鈴虫も1回死んじゃったら、もう、同じ鈴虫さんには生まれてこれないんだよ。」
うわぁ~と、いきなり大きな声で泣き出しました。
「前に、旅行に言ってる間に、りんちゃんの育てたお花が枯れちゃったの思い出したの。悲しかったよ~。」
この夏、初めて自分でペチュニアを育てました。(そのお話はこちら⇒)
そのペチュニアが、家族旅行のときに、自動水やり機の水が切れて、枯れてしまい、そのことを思い出したようでした。
「ごめんなさい、鈴虫さん、大事にする。」といって泣き続けています。
命には終わりがあって「死」があることを、私の言葉と、自分の育てたお花の記憶と鈴虫という組み合わせで、おぼろげながらに理解した瞬間だったのかもしれません。
抽象的な何かを理解していくたびに、自分と他者に線が引かれ、外の世界と自分とを切り離されたものとして、認識していきます。それが自立だし、成長であるのだけれど、孤独になっていくことでもあるのです。
喜ばしいような、寂しいような、微笑みたいような、泣きたいような気持ちになりました。
もうすぐ5歳です。娘が“独り”でがんばれる子になれるように、手伝ってあげられたら・・・と思います。