薬膳を語る 阪口珠未ロングインタビュー(14)

▽アスリートのトレーナー

──文部省(当時)の国費留学の期間が終わって、95年夏に中国から帰国されたんですね。

はい、中国の学会に薬膳の論文を認められたので、それなりの成果は出せたのですが、自分はまだまだだと思いました。希望すれば、国費留学は延長できたかもしれないのですが、これ以上は留学という形ではなく、社会に出て、働きながら実地で自分を磨いていこうと考えました。

まず考えた仕事が、アスリートのトレーナーです。例えば、車で言えば、モータースポーツの最高峰、F1で過酷な条件で、最高の馬力を出すエンジンが作られ、普通の車にその技術が転用される。プロスポーツのトップクラスの選手に薬膳を試してもらって、いい試合結果が出れば、一般の人々にも薬膳の考えが自然に受け入れてもらえるのではないかと考えました。

中国では、すでにこういうことをやっていました。私は北京で体育大学の寮に1年間住んでいたのですが、ここでは、スポーツ選手に漢方薬を使ってうまく体力向上させるような研究が進んでいました。当時中国では、「馬軍団」という、馬さんという男性が率いる中国代表の陸上チームがあって、彼らが特製の漢方ドリンクを作って、選手に服用させていました。それで、日本でもやりようがあるのではないかと考えたのです。

──日本では、どこに住んだのですか。

実家のある兵庫県西部に、いったん戻りました。当時、父は特定郵便局の局長をしていて、母は薬屋を営んでいました。父はダイエットをしていたので、毎朝一緒に1時間ほど散歩をしました。その間に、いろいろなことを話しました。

「4年間、中国でがんばったな。これからどうするんだ?」と言われました。私が黙っていると「どうせ、実家にとどまるのは無理だから、出て行くんでしょ。ここにいても、仕事ないしな。もう、あきらめているから、好きにしたらいいよ」と彼は言いました。

確かにそうしたいと思っていたのですが、さすがに父がかわいそうになって、私は「もうしばらくいるよ」と言いました。父は、口だけだな、というような表情で、寂しそうに笑いました。

元々、父は私の留学に反対していたんです。でも、私は決めたことは絶対にあきらめないことを知っていて、最後には認めてくれた。私が中国に行ったとき、父は、娘がもう実家にとどまることはないと思っていたんでしょうね。

▽心のひっかかり

──兵庫の実家では、何をしていたのですか。

母の薬屋の手伝いをしました。この薬屋はそれほど漢方に力を入れていたわけではなかったので、中国での私の知識を生かそうということは考えなかったですね。 たまに、店番をしていて、ダイエットの相談を受けることがありました。食事についてアドバイスすると「娘さんに、もう1回カウンセリングをしてほしい」と言われることもありました。

でも、私の店ではなく、母の店であったので、ただ普通に店の番をしていました。しばらくは、こういう穏やかな日々が続くんだと思っていましたが、そうはいかなかったです。

──何があったのですか。

帰国して一月ほどたった頃、母が高麗人参の研修で韓国に行きました。私は母のスタッフと一緒にお店の番をしてました。ちょうど、中国留学時代の友人が遊びに来ていました。

ある夜、父が血相を変えて郵便局から帰宅してきました。ただごとではない、と思いました。「どうしたの?」と聞いても「何でもない」と言うだけ。私が「ひょっとしてお金の計算が合わなかったの?」と言うと、父は「かわいいこと、言うなあ」とでも言うような顔で、ふっと笑いました。

しばらくしたら、父は、誰かの所に行ってくると言って、出て行きました。しばらくすると帰ってきて、ご飯を食べましたが、思い悩んでいるようでした。
 このときに、そのことについて聞いておくべきだったのでしょう。私は、心に引っかかったのだけれど、父には聞かなかった。それで、友人と眠ってしまいました。

朝4時に、父がいなくなっていることに気付きました。
トイレにもいなくて、おかしいなと思いました。家じゅうをずっと探して歩いていると、倉庫から光が漏れていました。おかしいな、と思って入ると、動かない父がいました。
まだ生きているかな。 でも、体はもう、冷たかったんです。

私はただ、お父さん、お父さん、と叫びました。
そして、すぐにものすごい罪悪感に襲われました。なぜ、あのとき、私が聞いてあげなかったのだろう、と。