薬膳を語る 阪口珠未ロングインタビュー(19) ▽「漢方キッチン」を ──薬屋をやりながら薬膳料理という新たな仕事をやろうと決めたわけですね。 まずは、薬屋の隣に薬膳パン屋を作ることを思いつきました。でも、これは調べてみると現実的な選択肢で はあ りませんでした。パンの製造技術は習得するのに何年も要するし、施設の導入にかなりの費用がかかる。薬店をやりながら進めるには、もっと 早く始められることにしなければならなかった。 一体、何をすればいいんだろう。熱意はあるし、頭の中にやりたいことのイメージはある。でも、なかなか 具体 的な形にすることができない。途方に暮れました。 ある日、知り合いの経営コンサルタントの女性から「神戸流通大の先生たちとの飲み会があるから一緒に 行って みない?」と誘われました。彼女は「今、考えていることを、そのときに相談してみたら」と提案してくれたんです。 ──その飲み会は、どうなったのですか。 たまたま私の席の隣に、40代の、髪の毛の薄い男性が座っていました。とても楽しく話している様子に私 の気 分も明るくなり、話しかけてみると、投石満雄さんという経営コンサルタントの方でした。この先生なら、私が考えていることを口にしても笑 われないかなと思いました。 台所から、体を整えるものがどんどん、出てくるイメージ、そんな仕事をしたいと伝えようと思いました。 そし て、つい口に出た言葉が、その後の私の人生に大きく影響を与えることになるのでした。 「私、漢方キッチンという会社を作りたいんです」 そう、今の私の会社、漢方キッチンのコンセプトはこのときに産声を上げたのでした。 ▽経営の師 ──「漢方キッチンをやりたい」と言ったときの投石先生の反応は? すぐに「ほう、それは面白いじゃないですか」と言うんですよ。「そのネーミングは魅力的ですよ」と。私は、この人に経営を教わろうと決 めま した。 翌日、投石先生の事務所に電話をしました。 「先生、お願いしたいんです。この漢方キッチンという事業を私、やってみたいんです」と言いました。そ した ら、先生は「激務ですよ。本気ですか?」と答えられました。それはそうです、家業の薬屋の経営も維持しながら、誰もやったことのない海へと こぎ出していく。心配も無理はありません。 私はまだ20代。若さだけは自信がありました。そして、迷わず言いました。「本気です、やりたいんで す。漢 方を使ったお茶とかお総菜を出す場所を作りたいです。そして、薬膳の考え方を広めたいんです」。できると思ったし、やらなきゃいけないと思った。 「費用が掛かりますよ。私のコンサル代」と先生。もちろんです。きっと勉強代として生きてくるはず。結 局、 なんとかコンサルタント費用を工面して、コンサル業務を受けてもらうことになりました。 ──投石先生からは何を学びましたか。 これまで私が全く身に付けていなかった、経営のイロハすべてですね。とても分かりやすく経済のことを教 えて くれました。「当たり前のように見えるお金の流れは、どれも当たり前じゃなくて、経営の結果なんですよ」とよく言われていました。 先生は「自分の経営資産を大切にするんですよ」とアドバイスされました。言われたことが分からず、私が 黙っ ていると「他の人にはなくて、阪口さんが持っているものを経営資産と言うんです」と教えてくれました。 投石先生の手腕について「新事業や2代目社長の企業内創業の達人」との評価を周囲から聞いていました。 これ までの仕事を尋ねると、処方箋を扱うだけでなく家まで出向くサービスをする薬局とか、主婦が興した地ビール会社、水がきれいなドバイでの 魚の養殖など、お目に掛かったことがない事業がずらずらと出てきました。 これは、私にぴったりだと思いました。 「20.「ゼロ」に戻れる場所を」へ続く 1:孤独を救った朝弁当 2:意外な提案 3:そば屋の”事件” 4:鉄格子と柳の庭園 5:まずメニューを覚える 6:国費留学への道 7:数値化しない医術 8:6本の指 9:素っ気ない回答 10:心の機微の大切さ 11:「老中医」に師事 12:旅先の凄腕料理師 13:薬膳学会での快挙 14:留学を終えて 15:父の死の衝撃 16:薬局を継ぐ 17:カジュアルな漢方薬店へ 18:漢方薬店での試行錯誤 19:漢方キッチンの誕生 20:「ゼロ」に戻れる場所を 21:新産業創造プログラム