薬膳を語る 阪口珠未ロングインタビュー(2) ▽意外な提案 ──乗馬はずっと続けたのですか? 大学2年生の時に、馬術部をやめました。きっかけがあったんです。部内の雰囲気を封建的に感じていて、部の民主化みたいなことをやろうと思って先輩に発言したら、孤立してしまい、同じ思いでいた友だちと一緒にやめなきゃいけなくなっちゃいました。馬が好きだったので、つらかったし、悲しかったけど、もうやり尽くした感じもしていたので、しばらくしたら「もう、いいや」と思えるようになりました。 ──それからどうしたんですか? 寮を出ようと思ったんです。もう、まかないの松浦のおじさんに毎朝弁当を作ってもらう必要もないので。一人暮らしをしてもいいかなと思っていました。それで松浦のおじさんに、さよならのつもりで「馬術部をやめたんだ」と言ったら、意外な提案がありました。 「今まで朝早く起きてがんばってきたんだからさ、これからは朝、この食堂でアルバイトしないか」その当時、早起きする学生は私以外にはいなかったそうです。「朝手伝ってくれる学生がほしかったんだ」と。結局、寮を出て行くとは言い出せず、おじさんを手伝うことにしました。 ──寮はどのようなところだったのですか? 郵便局関連の師弟が入れる所で、私が学んでいた明治だけでなく、東大や代々木のアニメーション学院などに通っている子がいました。全部で200人ぐらいの寮生がいたでしょうか。男女半々ぐらいです。 朝食の時間は午前6時半から。それに間に合わせるように、おじさんと2人で200人分を仕込みしました。5時半に私が調理場に行くと、おじさんはすでに黙々と働いています。おじさんはサンドイッチを作り、それからご飯食に取り掛かる。私は玉子をゆでて、それをつぶして、パンの上に塗って、キュウリやトマトをスライスする。それをひたすらやってましたね。 ▽「食事で体を治せるんだ」 ──200人分の朝ごはんとは、大変そうですね。 朝ごはんだけじゃないんです。朝食の準備が終わると、夕食の仕込みを始めます。お米をといだり、八宝菜なら、野菜を切ったりする。それが午前8時半まで続き、まさに一仕事終えてから、大学へと向かいました。 そうするうちに、「今日、市場でおいしい魚を仕入れたから、後でうちにおいで」とおじさんに言われて、講義がない日には、寮のそばにある、おじさんの家に遊びに友だちと遊びに行くようになりました。行ってみると、サンマの刺身とか煮物、サラダ、そのときの旬で、すごくおいしい料理がずらりと用意されていた。旬のもののおいしさは、松浦のおじさんから学びました。 ──「松浦のおじさん」は、どんな方だったんですか? 私に料理家の原点を教えてくれた人だと思っています。松浦さんは中学卒業後、ある医大の食堂で働き、和食と中華の修業をして、「邦楽」という中華料理屋を開業しました。おばさんの名前が邦子と言うので「邦子を楽しませる」という意味だったそうです。 その店がものすごく繁盛したのですが、ある日、おじさんは高いところから足を滑らせて半身不随になってしまった。それでお店を閉めてしまいました。診断では絶望的なことを言われたそうですが、あきらめなかった。店を売って手にした2千万円を温泉療法に費やし、さらに食事療法のメニューを自分で考えることで、奇跡的に回復して歩けるようになり、この寮の仕事を見つけたとか。 寮生にはよく「食べることは大事だよ、体の基本だよ」と、うるさいほど言っていました。「食事で体を治せるんだ」とも。お医者さんに見放されても、自分の力でがんばって治した。そのことの自負があったんでしょうね。そういう人に若くして接することができたのは、ラッキーでした。おじさんからは、調理場の片付け方や、飲食業の原価比率とかロスを少なくする食堂経営方法まで教わり、大学4年のとき、調理師免許を取得することができました。 「3. そば屋の”事件”」へ続く 1:孤独を救った朝弁当 2:意外な提案 3:そば屋の”事件” 4:鉄格子と柳の庭園 5:まずメニューを覚える 6:国費留学への道 7:数値化しない医術 8:6本の指 9:素っ気ない回答 10:心の機微の大切さ 11:「老中医」に師事 12:旅先の凄腕料理師 13:薬膳学会での快挙 14:留学を終えて 15:父の死の衝撃 16:薬局を継ぐ 17:カジュアルな漢方薬店へ 18:漢方薬店での試行錯誤 19:漢方キッチンの誕生 20:「ゼロ」に戻れる場所を 21:新産業創造プログラム